やひらの渡し

次の絵は、明治26年頃に描かれたと考えられる地図をわかりやすく写したものです。

この絵からはかつての町や村の様子を知ることができます。

たとえば現在の山陽本線は開通(明治22年)していますが、旧山陽道の正条橋はまだ架けられていません。

そのかわりに舟が描かれています。

この舟が描かれている所は、むかし渡し場があったことを示しています。

江戸時代に整備され、参勤交代などで、その役目をはたした山陽道の正条の渡し場があったところです。

渡し場のしるしである舟は、正条の上流の揖保上の北に2艘が見えます。

ここでは中臣山の上と下から対岸へ渡る2つのルートがあったようです。

この渡しは「夜比良の渡し」と言われ、その歴史は正条の渡しよりも古く、以前からあった渡しが鎌倉時代になって新たに整備されたと考えられています。

今から約700年前、鎌倉幕府は再度の蒙古襲来に備え、兵の派遣や物資の輸送のために道路の整備を急ぎました。これがきっかけとなって整備されたこの道路を筑紫大道と言い九州の太宰府へ通じていました。2度目の蒙古襲来(弘安の役・1281年)の際には、多くの兵や物資が揖保川を渡っていったことでしょう。

渡しの名称は揖保上の式内社である夜比良神社の名前からつけられたものです。夜比良神社は、約1200年の歴史を持つ由緒ある神社です。宍粟郡一宮の伊和神社と同神の大国主命が祀られ、伝承によると伊和大神が揖保川を下ってこの地に降りられ、揖保川流域の南部の守護神として祀られたのが始まりと言われています。

伊和神社を北方殿、夜比良神社を南方殿と呼ぶのはそのためです。

揖保川は水田をうるおし、人や物を運ぶだけでなく、人々に信仰をもたらしたのです。

この夜比良の渡しは、官道としての役目を正条の渡しに譲ってからも、新在家の人々が氏神様にお参りする際に利用するなど、大正・昭和の頃までは使われ続けていました。

現在、この付近の揖保川右岸で、建設省により「水辺の学校」として親水性を大切にした河川整備が行われています。

ここに夜比良の渡しの石碑が建てられていますが、このことは単なる河川整備に留まらず、歴史を刻み後世に伝えるという、今に生きる私達にとって、大変貴重で重要なそして見識のある仕事だと言えるでしょう。

夜比良神社 宮司 盛田賢孝

建設省姫路土木事務所『川のたび揖保川』より

     

※1 式内社(しきないしゃ)・・・平安時代(10世紀初期)に編集された「延喜式」神名帳に記載されている神社

※2 官道(かんどう)・・・官費でつくる道

   

   

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